「Must(〜ねばならない)」の呪縛から自由になるために、言葉で世界を編み直そう!

つれづれ日記

現代日本は史上とてつもなく豊かになったのに、生きづらさを抱える人が多くいます。生存の危険からは解放されたはずなのに、なぜか毎日が苦しい。大人でも子どもでも、そんな話を周りでもよく聞きます。

それはどうしてなのでしょうか。

ひとつには、「豊かになったからこそ、自分に意識が向きすぎた」という逆説があるように思います。
敗戦を経て食うや食わずの日々だった時代は、なんとしても豊かな国を作り、明るい未来を築こうという目標がありました。言ってみれば、自分のことを考えている暇などなかったわけです。


でも、そういう先人たちの努力の結晶として、私たちは今ありがたいことに、暇と退屈を謳歌しています。もちろん、仕事に家事に人付き合いに、それなりには日々いそがしい。でも食べるに困ることはなないでしょう。モノもサービスも情報も溢れていて、終わりなき日常は繰り返されます(もちろん、世界にはまだ問題が山積みで、それを否定しているわけではありません。でも人類史上、総体として今が一番豊かな時代であることは事実です)。


すると自分を観察する時間が増えます。ヒトは進化的には社会的動物なので、つい他人との比較にばかり時間を費やすようになります。


その結果、「あぁ自分はだめだ」「やりたいことがわからない」「あの人はうまくいっているのに自分はなぜ」否定の呪文で自らを縛るようになってしまうのです。


でもよく考えると、この呪文には正当性がありません。なぜなら、比較の基準となる世界の枠組みとルールは、所詮借り物でしかないから。


人間は意思なくこの世に生み落とされます。それは、「誰かの言葉」ですでにできあがった世界に投げ込まれることを意味しています。「まずはじめに言葉があった」。そう、生まれる前から、世界の型はできあがっていたのです。


「誰かの言葉」でできあがった世界なら、その言葉でできあがった呪文に自分がひれ伏すべき理由はどこにもありません。


とはいえ、それでも「誰かの言葉」による比較がつらいという人は現実には多く存在しています。
そんな人に届けられるのは、「誰かの言葉で編まれた世界を、自らの言葉で編み直す」という処方箋です。


カギは「自分の言葉」にあります。「誰かの言葉」でできあがった世界は所与のもの。だからどうしようもありません。だったら、逆説的に、いっそのこと全部丸飲みしてしまえばいい。そしてそれらを咀嚼消化して、その上に「自分の言葉」を吐き出せばよいのです。


価値の作り方は無限大です。「これはこういうもんです」と誰かがすでに分けてくれたから、他のものとの差異ができあがり、それが価値ある商品なり、サービスなりになりました。

「虹は7色」と分ける言語もあれば、「濃い色と薄い色の2色しかない」と表現する文化もあります。日本語の「お湯」という概念は「水」とは異なりますが、英語において、Hot waterは「熱い水」に過ぎません。

それと同じことで、つまりは、分節には自由があるのです。であれば、「私はこうやって分けます」と勝手に切れ目を入れる自由も、当然保証されています。


自分のミッションやビジョン、ポリシーというのは、その際たるもの。独自の世界の分け方です。
いざできあがってしまえば、その日からは、それらを拠り所にして世界を眺められるようになります。

そうなればもう、「誰かの言葉」に揺さぶられる必要はありません。「自分の言葉」で上書き保存した世界を堂々と歩いていけばいいのです。


生きるとは、借り物の言葉の森をくぐり抜けて「自分の言葉」を手に入れること。「自分の言葉」を手に入れた彼らは真の自由人。そして彼らはもう、Mustの世界に生きることはありません。

コメント

タイトルとURLをコピーしました